後半部分ようやくいきなり昨晩書いたんですけど、
なんか知らんけど急に後半部分書こうかと
ブログの編集画面開いて、ゼロコンを2分ぐらいやって、
「ダメだ、なんも思い浮かばない、無理だ。やめよう」と
諦めて、「もう寝よう」と真っ暗にして
数十秒したら
「あらら、来ちゃったよ」と、もうPC閉じちゃったから
後半部分を枕もとのノートに本人も読めない難解な汚い字で書いたんですが、
まぁ、ほんとに毎回読めない。
解読するのに時間がかかる。
書きたいことが多すぎて書く速度が追い付かないから
まぁ読めない。
しかし2か月近く前の内容の後半部分をいきなりよく書けるよなぁと
関心しますわ。
文章が長ったらしいので内容の補足しておきますと
人間の表の設定が
「幸福を求めれば幸福になれる」という
幸せを定義しないまま幸せを求めるものになっています。
なぜ人間は幸せを定義しないまま幸せを求めるのか?というと
裏の設定で3つの設定があるからです。
裏に隠れたまま普通は見えないので
「幸せになりたいけど、どうやったら幸せになれるんだろう?
幸せってなんだろう?
うーんよくわかんないけど幸せの定義はひとそれぞれだし
とりあえず幸せになりたい」って
「幸福を求めれば幸福になれる」と盲目に幸福を求めるわけです。
なぜなら幸せを定義するには
裏の3つのおぞましいものに気づかなければ「幸せを定義できないから」
でも隠れているので見えない。
見えないままだからずっと幸せを定義できず
結局幸せがなんなのかわからずに
「幸福を求めれば幸福になれる」という衝動のまま生きている。
幸せを定義するには、その裏の設定の3つに気づかなければならない。
そして幸せとは裏の3つの設定がないこと。
これが幸せの定義です。
ならその3つの裏設定に気づいて取り除かないと
幸せになれないということになりますよね?
こんな
自己無価値・罪悪感・死の恐怖という3つを根本に抱えたまま幸せになるなんて
不可能じゃないですか?
抱えたままでも表向きは幸せになれますね。
いまの僕みたいな状態ですね。
「だからつまずいてるフェーズなのか!!そういうことか!笑」
「誰がつまずいとんねん!」
ではその3つがないとはなにか?
空・中庸・ダルマです。
空・中庸・ダルマが幸せの定義になります。
空・中庸・ダルマは手段であり目的です。
自分で自分を癒す方法の心地よさは目的を達成すための手段なので
あの心地よさはすでに空・中庸・ダルマを一時的に感じている状態です。
あれが24時間自然と永続すれば達成したということですね。
手段と目的が一致してるってえぇなぁ。
後半部分を書いてるときに
「これって、、、人間って知りたいって思うのかな?書いて大丈夫なのか?
人間みんなこんなこと知りたいか?」っていまさら思ったんですよね。
さんざん以前も書いてたのに。
「これ書いちゃうと”無条件”の愛じゃなくなっちゃうじゃん」
「みんな見たくないし、指摘して欲しくない部分じゃん」
「これ勝手にやっちゃうと
アルコーンに”ちょいちょいちょい、なにしてん自分?”って怒られるやん。
”そういうの勝手に指摘したらアカンよ。ルール無視せんといてぇ。
ガネーシャ送り込んで願い叶えたるから、アカンでぇ”」
「そんな出来損ないいらねぇんだ!弟よこせ!」
みたいになっちゃうわけですよ。
ちなみに分離と分断って違うらしい。
我々は分離したうえで分断されてるらしい。
分離したまま”つながっている”ことも可能のようで、
分離っていうのは「個」の体験で
分断っていうのは「個」のうえでさらに神とのつながりがない状態らしい。
確かに神と繋がりながら「個」を体験することも可能だよな。
それがむしろアイオーンOSじゃね?
あれ?アルコーンと繋がりながら「個」を体験することもできるわけでしょ?
それが天上天下唯我独尊か。
天道か。
あのラーメンの「個」の話で「個」のままなら分離したままやんとか思ってましたが、
「個」の維持は可能なんやな。
ということは浄福が7年で終わっても肉体なしで「個」で魂のユーモア全開で
どっかで浄福のまま生きられるってことか?
それがアセンデッドマスターか?
ということは
どのレベルでも中庸が可能なら中庸には段階があるってことだよなぁ。
よーわからんなぁ。
「れんだいうてなの世界」と
「この世界は無条件の愛」ってなにげにつながってるよな。
両方ともこの世界と人間の心の闇のつながりを説明をしている。
https://rendaiutena888.xyz/nocoditional_love/
この世界の説明をしちゃうって
人間の心の闇を指摘しちゃうと
”無条件の愛”じゃなくなっちゃうのよね。
人間の心と世界のこと説明しちゃうってことは
”無条件の愛”側じゃないってことになっちゃうわね。
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