無花果(いちじく)
と
徒花(あだばな)
実だけで花の咲かない無花果
花だけ咲いて実のならない徒花
人間は常に矛盾した信念を抱いている。
苦しみたくない。
苦しまなければ幸せになれない。
聖書の善悪の知識の木の実はりんごあるいは無花果と言われている。
無花果という信念を持っていてもそこから花が咲くことはない。
花だけ咲いて実のならない徒花という矛盾した信念を持っていては
どちらも手に入らない。
いや、どちらも不必要なのだ。
さかきもりんごも無花果もすべて徒花で不要だ。
それから、この譬を語られた、
「ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、
実を捜しにきたが見つからなかった。
そこで園丁に言った、
『わたしは三年間も実を求めて、
このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。
その木を切り倒してしまえ。
なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』
すると園丁は答えて言った、
『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」—ルカによる福音書 13:6-9、口語訳聖書
この3年を無花果という無駄な信念に費やしてはならない。
無花果に幸せを求めても未だに見当たらない。
切り倒してしまえ。
なんのために空というスペースにそんな無駄にふさがせておくのか。
そのままにしてはならない。
来年まで待つ必要はない。
切り倒してください。
あなたに必要なのはぶどうだ。
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。
しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。
ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、
あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、
わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、
あなたがたは何もできないからである。」
新約聖書 ヨハネによる福音書15章1~5節
どんなに素晴らしい信念も徒花だ。
それがどんなに素晴らしくポジティブな信念であってもだ。
それがどんなに素晴らしいアファメーションで種を植えこもうとも
そこから成るものは
実だけで花の咲かない無花果
花だけ咲いて実のならない徒花
だが本人がそう思うまでは構わない。
どんなに言葉を重ねてもあなたの目には入らない。
言葉は真理から二重に遠い。
言葉は間に二人入る伝言ゲームだ。
伝えたいものを言葉にシンボル化する
それを受け取ったものを本人の解釈で理解できるようにシンボル化する
A.伝えたいもの
↓
A.言語化(間)
↓
B.受け取り手の言語の認識(間)
↓
B.受け取り手の解釈
伝えたいものから二重に離れる
人間は自分の理解できるものしか認識できない。
当然だと思うだろうか?
認識できないとは目に入らないんだ。
目に入っていても無意識が不要な情報として処理する。
スコトーマだ。
人間は自分の理解できるものしか目に入らない。
これは当然だろうか?
目に入っていても目に入ってないことにする、
自分の理解できることしか。
これでは永遠に視点が広がらない。
永遠に自分の理解できることだけを目にする。
同じものしか理解できないから同じものしか目に入らない。
視点・視野・視座を固定させないためにはまったく違う情報を入れることだ。
あらゆることを知れ
(むちゃゆーな、Sefer Rasielよこせ)
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