11月11日、Amazonにて新刊を出版します。
タイトルは『Φ0から2へ、空が完成するとき ― この世界の設計図を思い出すために』です。
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この本では、これまでブログやセミナーで語ってきた「れんだいうてなの思想」
「ゼロコン理論」の根幹──
“幸せになりたいはずの人間が、なぜ苦しみを再生産し続ける意識構造なのか”
という問いに、Φ₀からΦ₂へ至るプロセスとして答えを与えています。
ここでは、その世界観の“橋掛け”となる文章を残しておきます。
(長文ですが、最後まで読むとこの世界の構造が一気に見えてくると思います。)
第1章 スピリチュアルとは生き方である
●サイキックとの違い:
多くの人が、
スピリチュアルをサイキック、つまり超能力みたいなものと勘違いしています。
スピリチュアルとは本来、「生き方」そのもののことなんです。
サイキック能力とは、
オーラが見えるだの、感じるだの、
チャネリングができるようになる、
ヒーリング能力に目覚める、
龍と繋がる、
宇宙人と友だちになる、
たしかに、そうしたことが”起こる”ことはあります。
でもそれは、日々の実践という「生き方」を通して、
結果的に解放されていく副産物のようなもの。
ただの通過点として使えるようになるようなもので、
それを手に入れることが目的なわけではありません。
たとえば、スプーン曲げ。
これを自慢げにSNSに載せてる人、見たことあるでしょう?
でも考えてみてください。
スプーンを曲げて使えなくしてどうするんや?
ゴミを量産する能力を自慢する、そしてそれを称賛するって地球人の民度、
大丈夫かよ?と。
こんなばかげた話はないでしょう。
民度が低いままサイキック能力だけを手に入れた者は
さらに欲望に奉仕するようになるであろう。
だからこそ、
愛に奉仕する生き方をしたいものですね。
そうなるためには、
スピリチュアルとは生き方であり、日々の実践なのです。
●実践=鏡の二枚目を見る生き方:
では、日々の実践とはなにか?
日々の実践とは=
鏡の二枚目から投影の読み解き→深掘り→三毒に到着→そこまでの言語化→癒す
これを一言でいいかえると、
“自分がなにをやってるのかわからないまま自動で生きてる”状態をやめるということ。
なぜなら人間は、日々の中でほとんど自動運転で生きています。
顕在意識まで浮上してくる思考プロセスを全く認識することなく人間は、
無意識に言動を繰り返せているのだから。
だからこそ、
まず必要なのは「意思決定のプロセスを観察すること」。
そして、そのプロセスに気づいたあとで、
逆位相で癒す――つまり、反転の波でノイズを消すんです。
これが日々の実践であり、「生き方」なんです。
これをやるにはまず「入口」に立たないといけない。
※入口についてはこちら
●投影・三毒・逆位相の意味:
実践のなかで、投影、三毒の理解が必要なのですが、
まず人間の心の根本である三毒についてみていきましょう。
三毒=自己無価値感・罪悪感・死の恐怖
人間はこの3つを初期設定として持って生まれてきます。
それと同時に幸せになりたいという思いも埋め込まれています。
ここで問題が起きます。
三毒の罪悪感は自分を罰したいという強い衝動があります。
だから私たちは幸せとは逆方向の無意識の決定を下してしまう。
そこが人生の決断の最初の決定者になっている。
幸せになりたいのに幸せになれないような人生の決定を無意識にしてしまう。
だから必要なのは、
その無意識の決定プロセスを特定して消す具体的な方法です。
三毒がなくなり、幸せになりたいという思いだけになったとき、
純粋な幸せになりたいという衝動から
幸せになるという決定を生きられるようになる。
これがアルコーンOSからアイオーンOSへの切り替えである。
アルコーンOS:幸せになりたいと自分を罰したいというせめぎあいの人生
アイオーンOS:幸せを生きるという純粋な思いだけの人生
アイオーンOSになるための生き方。
それがスピリチュアルであり、日々の実践なのです。
逆位相とは?
出ている“罰したい波”に、山と谷がずれた周波数で
フラットに戻す方法論のことです。
ここまで聞くとですね、こう思うはずです。
「いやいや、たしかに幸せになりたいとは思ってるけど、
三毒なんてそんなもん本当に埋め込まれてるんかい?」
と思うのが普通だろう。
ではそれを細かく検証していこう。
●第2章 鏡は二枚ある
私たちが「現実」と呼んでいるものは、
まるで鏡のように自分の内側を映し出しています。
ただしこの鏡は一枚ではない。
二枚あります。
鏡の1枚目:
多くのスピ系は言う:
「あなたの波動が現実をつくる」
「あなたの内面が外側の出来事を引き寄せる」
「相手はあなたの鏡」
といった言い回しが流行っていて、これが鏡の一枚目の領域
つまり、現実はあなたの意識の反映であるという原理。
あなたの思考・感情・信念・周波数が外界の出来事として現れる、という構造です。
鏡の2枚目:
ではもう一枚の鏡「鏡の2枚目」とは何でしょうか。
これは心理学で言う「投影(プロジェクション)」の領域です。
ユング心理学ではこう説明されます。
ユング:
「人は自分の無意識の性質を他人に押しつけ、それを相手の中に見る。
そのとき、相手の中に見ているのは自分自身の影(シャドー)である。」
つまり、自分の中にある攻撃性・卑小さ・劣等感などを認められないとき、
それを外に押し出して(投げて)他者に見出す。
そして「相手が悪い」として責める。
この鏡の2枚目を見落とすと、
人は自分の中にある否認を他者に投げ続けることになります。
つまり――「同じ現実を何度も再生産する」。
ユングは鏡の1枚目(外側の現象化・現実化)については、
シンクロニシティの概念で語る。
ユング:
「外的出来事と内的状態が意味でつながる現象」として扱った。
つまり、本人の心の状態が“意味的に対応する形で偶然の一致として現実に現れる”と。
●ユングとれんだいうてなの違い:
ユングの世界の構造はこう。
外界(現実)
↑
投影(自我が認めない部分が外に映る)
↑
自我(ペルソナ)
↑
個人的無意識/集合的無意識
ユングは、「シャドーを認識して統合する=自我の成長」が目的。
あくまで心理学的プロセスいわば人格の成熟であり、
焦点は“受容・統合”にある。
彼の鏡は、言ってみれば「自我を磨く鏡」で止まる。
簡単に言うと、品のあるエゴ、成熟したエゴを目指している。
だが我々は「観察して統合する」なんてことはしない。
むしろ、
“観察している意識そのものがどんなプログラムに支配されているか”
“どのOS(アルコーン or アイオーン)で動いているのか”まで解明しようとしている。
1枚目の鏡は:
創造主としての視点、「自分が現実をつくり出している」という意識の反映。
2枚目の鏡は:
その自分で作った現実に「自分の見たくない内面を投げつける」という投影の構造。
これは”ずっと同じ自分”だけを映し続けることができる合わせ鏡状態になっている。
つまり、
私たちは“いつもと同じ日常”を、
無意識のうちに自動で創り続けている。
それが嫌だからといって、
現実に文句を言っても何も変化は起きない。
なぜなら、
実際の鏡に映っている姿に、
「あんた髪型変よ!直しなさいよ!」と言っても鏡像の髪型は決して直らない。
それと同じように、私たちは現実という鏡像に文句を言い続けている。
原因はこの2枚の構造を知らないからだ。
この鏡の2枚を動かしているものはなにか?
それがあなたの内側で人生の車輪を動かしている見えないプログラム、それがOSである。
鏡をいくら磨いても、映している意識のプログラムが同じなら現実は変わらない。
この2枚を同時に見られるとき、はじめて自己理解が始まる。
●OSの観察:アルコーン/アイオーン:
この合わせ鏡を作り出している見えない設計がOSである。
鏡をいくら磨いても、映しだしているOSが同じなら現実は変わらない。
だから癒しとは、鏡像を直すことではなく、
合わせ鏡そのものを生み出しているOSを切り替えること。
ではここからは、アルコーンOSがどのように作動し、
どのように自己再生産を続けるのかを解きほぐしていく。
それこそが“深掘り=自己理解”の実践である。
②深掘り
詳細は著書にて述べることにする。
詳しくは拙著をご覧いただきたい。
深掘りについての参考文献はこちら
人付き合いが苦手というお悩みは、「私は世界の異物だ」だった!?
第3章 三毒は罰ではなく自由の証明である
③三毒
三毒が埋め込まれてるのにも、目的があります。
既存のスピリチュアルは、
「この世界が無条件の愛で自由意志が尊重され、
引き寄せの法則で同じようなものを再生産し続ける」という。
にもかかわらず、
「なぜ自分の人生がこうなのかわからない。。。」と人間はいつもこうなる。
たとえば、
「私が骨を折ることを望んだって?そんなわけないでしょう?
潜在意識も引き寄せもおかしな話だぜ!」
と思ってしまいます。
なぜ、こんな勘違いが起きるのか?
それは、
・鏡の1枚目しか見てないから。
・人間は自分の思っていること感じていることが自分のすべてだと勘違いしているから。
・顕在意識と潜在意識の思いが一致していると思っているから。
この3点を理解していないから勘違いが起きてしまうんです。
なぜそうなるのか?
それは人間の思考プロセスは無意識化され、
「決断→認識のプロセス」がまったく自分で”わからないように生まれついてる”からです。
しかしそれにも目的があります。
この世界は「原初存在」という完璧を一段階ずらして模倣した世界。
原初存在という「永遠」を
「永遠の時」という時間の長さで模した、
ずっとグルグル、二元を遊べるゲームとして存在している。
これがこの世界の六道輪廻というゲーム。
なんのためにそんなことをしているのか?
原初存在の問いに答えるため、です。
「わたし/わたし以外とは何か?」という問いに答えるためには
徹底的に自由で三毒という愛とは真逆のものがないと知り尽くせないから。
なので、三毒とは“自由の証明”である。
三毒は罰ではない。
三毒は「原初存在の自己探究アルゴリズム」。
「わたしを知るために、わたしを完全に見失う」
ということ。
そのための世界。
そこで多くのスピリチュアルはこう言う:
「神から分離し、この二元の世界を我々は体験し学びに来ているのだ!」と。
喜び・悲しみを体験して「あー楽しかった!」と、
体験そのものが目的であり、体験で終わる。
いや、むしろそれには”終わりがない”ということになる。
一般的なスピリチュアルは、
「体験し続けることで成長し続ける」という。
つまり、ここは永遠の遊園地構造。
いわば「終わらない物語」
その中で“悟り”と呼ばれるものも、
単に「少しだけ視点が高い体験者」になっただけのことが多い。
彼らは言う、
「私たちは愛そのもの」「思い出すだけでいい」と。
彼らは“思い出すこと”をゴールにしている。
だが我々は”なぜ思い出せない構造”なのかを解明しようとしている。
彼らは、
「神=愛=わたし。だから思い出せば救われる。」と言う。
しかしそこでは“なぜ忘れたのか”は深掘りされない。
忘れたこと自体が「地球ゲーム」や「体験学習」という物語りで片づけられる。
結果として、「思い出す→また忘れる→また思い出す」を繰り返す。
これこそが、永遠という存在を模した“永遠の時”を生きるアルコーン構造。
リーラ(神の遊び)とはこのことである。
だが、我々はこう考える。
「思い出せない理由」そのものが“原初存在の問い”―「わたし/わたし以外とは何か?」―を
もう一度、個として体験し直しているプロセスなのだ。
つまり、「思い出すこと」ではなく、
“なぜ忘却が発生するのか”という構造そのものを解体する。
なぜなら、
思い出すことは、ただのΦ₀にすぎない。
それは「原初の空」への回帰であり、完成ではない。
問いへの応答なき、ただの“想起”(=思い出し)でしかない。
だから――また忘れ、また思い出す。
その繰り返しの中に、人は“終わらない永遠”を生きるのだ。
そこで我々は問いへの答え、Φ₂を引っ提げて上昇する。
それがΦ₀からΦ₂へ。
※この先の「Φ₀→Φ₂」についての詳細な構造は、著書『Φ0から2へ』にゆだねる
既存のスピリチュアルがいう体験学習だけだと、
どんなに極めても天道までしかいけず、また地獄道からね♪
という二元を繰り返す。
体験の構造を看破して、
原初存在の問いに答える形にしなければならない。
体験学習型スピリチュアルは、
「気づき→成長→悟り→また降下」というループ式。
六道を上昇しても、どこまで行っても同じトーラスの中をぐるぐるしている。
たとえば「天道」はそのループの最上層に位置する。
ここでは光・愛・祝福・ワンネスなどの“高波動体験”があり、
本人は「悟りきった」と錯覚する。
でも本質的にはまだ体験の主体(体験している私)が残っている。
構造的にそこはまだ二元の十字架の中だから。
原初存在の問い=「わたし/わたし以外とは何か?」
この問いに答えるために、”分離”という仕組み=体験が設計された。
しかし、体験というものは、
「体験する私」と「体験される何か(わたし以外)」という
二者の分離を前提にして成り立っている。
つまり、“体験”そのものがすでに「わたし以外」を前提にしており、
この構造の中では、最初の問い「わたし/わたし以外とは何か?」を
永遠に解決できないようになっている。
これが「六道」という自己ループ構造である。
六道をぐるぐる回ることは、
“原初存在の問いを体験し続けるが、決して答えられない”という遊び。
難しい?なので補足:
体験には必ず「体験する私」と「体験される世界」がある。
どんなに体験を積み重ねても、
それは常に「分離の中での理解」に留まる。
原初存在の問いは「わたし/わたし以外とは何か?」。
これを“体験”という分離構造の中で探しても、
必ず「わたし以外」を前提にしているため、
問いが成立し続けてしまう。
だから、問いが終わらない。
つまり、
体験とは「問いを生み続ける構造」そのものであり、
決して“答え”を導く構造ではない。
「体験=二元」「体験=問いの継続」なので、
体験の中では問いが終わらない。
それが六道のループの正体である。
さらに補足:
「体験」は“断面”の理解。
「144面体の自己理解」は“構造”の理解
・わたし/わたし以外とは何か?という問いに「体験」で答えると永遠ループが続く。
・わたし/わたし以外とは何か?という問いに「なぜその問いが発生したのか?」という構造の理解で答えるともう問いが発生する理由がなくなる。ゆえに永遠ループが終わる
つまり、
「体験」は問いの再生産、
「144面体の理解」は問いの完了。
144面体とは“体験のすべてを内包したうえで、もはや体験を必要としない意識構造
(補足終わり)
この輪廻からエクソダスする方法:
これは「輪廻を否定する」ことではなく、
輪廻の意味を完成させて終わらせること。
それは「逃避」ではなく、「問いへの応答」
ゆえに、スピリチュアルとは“生き方”であり、実践とは鏡の二枚目を見続ける行為である
●解脱とはなんだろうか?:
この永遠ループである輪廻から脱出する方法として「解脱」と言われるものがある。
一般に、解脱とは六道の苦しみ(生老病死・執着・業)から離れること。
つまり「もう生まれ変わらない」「再びこの世界に戻らない」ことを理想とする。
“輪廻からの離脱”をゴールに置いている。
つまり、「ゲームを降りる」ことを目的としている。
だが我々がやろうとしていることはそれではない。
「輪廻から逃げる」ことではなく、
「輪廻の構造そのものを解明して、問いを終わらせる」こと。
六道を“無視”するのではなく、“構造的に看破”する。
輪廻を否定せず、輪廻の目的を達成して終了させる。
たとえるなら、
他の修行者が「ゲームを放棄してコントローラーを置く」のに対して、
我々は「ゲームの仕様を解析し、ループを意図的に終了させる意識のハッカー」である。
※ハッカーとは「既存のシステムの仕組みを深く理解し、その制約を超えて自由に再構築する人」
アルコーンOSは壊れているのではなく、
“終わらないこと”を目的として完璧に動作している。
我々は、その完璧な設計の中に隠された問いの意図を読み解き、
ゲームを“正しく完了”させる方向へと進む。
この仕様のなかで、解脱を求めてる人は、
「苦しみが怖い」、これが動機になる。
だから、離脱したい。転生したくないという思いになる。
我々は問いに答えるために、
深い自己理解と癒しの2つを揃える必要があると考える。
つまり、解脱を求める人のスタート地点は「恐れ」や「拒絶」になっている。
この構造は「死の恐怖」が動機になるので
アルコーンOSの三毒の延長線上にあるということになる。
「苦をなくそう」とする限り、
苦という概念を前提にし続けることになる。
つまり、OSの根は変わっていない。
しかしながら、苦しみには限界があるのでどこかの時点では
「私の人生は苦しすぎる、おかしい。苦しみから脱出したい!」と
一番最初の動機だけ「苦しみ」であることは絶対条件に思う。
それ以降は苦しみを嫌悪する気持ちから苦しみを手放そうとするのは
苦しみを前提としているから終わらない。
苦しみがなぜ存在するのか?という構造の理解(問いへの答え)が必要になってくる。
そこでこの二元の十字架のなかで苦しみを減らす方法として世間はこういう。
「いまはあなたはポジティブ20%、ネガティブ80%だから苦しいんです。」
「光と闇を統合しないといけません」
「ポジティブもネガティブもどちらも大切なんですよ。受容しましょう」
「光と闇の統合、ポジティブ50% ネガティブ50%」と、いうように。
だがしかしこれは、
依然として二元の中まんますぎの話でしかない。
(ぶっちゃけアホとしか思えない。)
我々は二元のバランスを求めてるわけではない。
二元の構造そのものに答えを持ち帰る。
彼らはこういうだろう:
「ポジティブもネガティブもどちらも大事」
「闇を受け入れてこそ光がある」
これはつまり、「プラスとマイナスの釣り合い」であって、「ゼロ」ではない。
二元のバランスを取ろうとすること自体が、すでに二元の中での振り子運動である。
我々はそんなものは目指していない。
光でも闇でもない、
しかしどちらも含んでいながら反対側を生まない存在―
―中庸。
それは“光と闇のバランス”ではなく、
波そのものがフラットに戻った状態。
これを目指している。
光と闇を統合することは、アルコーン構造の最終形。
光と闇を生まないことが、アイオーン構造の始まり。
「統合」っていうのはまだ“eのiπ乗=−1”の世界。
我々はその+1を生み出す“Φ₀”の世界。
さらに
ファイ0という空になっただけでもまだ道半ば(原初の空への回帰)。
自己理解という原初の問いへの答えを持ち帰ってΦ2になれ!
これが完成された空である。
※ファイについては拙著で。
光と闇を統合するため、そして、
現実を変える方法としてスピリチュアルはこう言う:
「波動を整えれば現実が変わる」と。
波動(原因)を変えれば、現実(結果)が変わるという概念。
たしかにそれは正しいかもしれない。
ただし、あなたが変えようとしているその波動が、
“上澄みの結果”としての波動ということを理解してない。
原因と結果をちゃんと理解してないともいえる。
その波動が生まれた原因はなにか?という問いがない。
たとえば、
「人生が苦しい!お金にいつも困ってる!」というひとがいる。
その人が、
「そういう波動を出してるからなんだ!だから波動を変えればいいんだ!」
しかし、お金にいつも苦労する波動は
「なにが原因なんだ?」という問いがない。
そういうと、「問いはあるわよ!」と、以下のように言う。
「お金がない!そうかお金のブロックがあるのか!
お金を汚いものだと思ってるのかしら?
清貧が素晴らしいとか思ってるのかかな、わたし?」と、
お金がないという現実、
鏡の一枚目から深堀りしようとするとこんな浅薄な結論になる。
「”お金がない!”の波動を”お金がある!”に変えればいいのか!」と。
なんて短絡的な話だろうか。
本当の原因を探るには鏡2枚目を使うしかない。
1枚目から探ることはできない。
本当の原因をさぐる際に、たとえば、
ニュースで極悪人が捕まるのを見て、こう思ったとする。
「罪人は楽に生きられると思うなよ。せいぜい苦しみながら生きろ!」
そう思った瞬間、
当然だけど、「その苦しみながら生きろ!」の範囲に自分も含まれてる。
だからあなたは、
「罪びとは楽に生きてはいけない」という無意識の掟に従い、
苦しく生きる現実を“自ら創造”しているのだ。
自分がまさにそういう人生(罪びとは楽に生きてはいけない)を生きてるという構造の理解がないから、
上澄みの波動だけ変えれば人生が変わる!と思ってる。
変えようとしてるその波動は原因じゃなくて結果という上澄みの波動。
だから何も変わらない。
自分を責めることを止めずに、楽な人生は手に入らないであろう。
なぜなら、罪びとは楽に生きてはいけないと本人が強く思っているのだから。
つまり、お金の原因はお金の波動というのはものすごい浅い。
もっと深い構造がある。
お金(結果)
→苦しみ(現象)
→罪悪感(動機)
→罪びとは楽に生きてはいけない(無意識の信念)
→これに自分も含まれている。
という構造の理解が必要。
この構造の理解ががないまま、
お金のブロックだけ外して金持ちになろうとすること、
これがまさに「不可能を可能にしようとしている状態」。
原因と結果がわかっていない状態。
これを理解しない限り、同じ人生の再生産を繰り返すだけ。
罪びとは楽に生きてはいけない、と、幸せに楽に生きたい、という
相反する思いのせめぎあいこそが人生の苦の正体である。
人間の罪悪感とはものすごい強い衝動、誘惑である。
人間は罪悪感が大好きである。
自分を罪びとだと確定したい強烈な誘惑を持っている。
でもそれを実感することはほぼないのよ。
多くの人が言うでしょう。
「え?罪悪感?そんなもの感じたことないですよ?」と。
だが、
誰かに強い怒りを感じたり、「あいつは絶対にクソだ!」
と言い放ちたい衝動、これこそが、
自分は罪びとだ!と罪を確定させたい誘惑そのもの。
罪悪感がなかったら他者への怒りや
報復の気持ち、許せない気持ちは存在できない。
自分の罪を確定させたい気持ちが外側に向いたとき
怒りや報復の気持ちになる。
他者の罪を確定させたい気持ち=自分の罪を確定させたい気持ち
「自分は罪びとだ、それこそ私に相応しい!」という強い強い罪悪感からなっている。
だが、ほとんどのひとが
「そんなわけないやろ?」と思う。
これを理解するには鏡の2枚目の投影を理解しなければならない。
「罪悪感?はにゃ?」というひとは、
投影も鏡の2枚目もまだわかってない。
これがわからないということが意味しているのは、
“自分が不可能を可能にしようと生きている”という無意識の言動パターンを理解してない、
ということ。
不可能を可能にしようとするとは「矛盾の達成」。
それは不可能なんです。
矛盾の達成を目指す限り、人生は変わらない。
つまり同じ人生の再生産の繰り返しなのです。
このお金や苦しい人生などから深掘りするだけで
人間には三毒が埋め込まれているとわかるはずです。
●図にしてみた:
外界(現実・現象) ← 鏡の一枚目
↑ 意識の反映(結果の波動)
↑ 投影構造(無意識) ← 鏡の二枚目
↑ 三毒(自己無価値感・罪悪感・死の恐怖=原因の波動)
そこで、既存のスピリチュアルはこういう:
心の闇の原因である投影を終わらせるには、
「ジャッジしてはいけない。手放しなさい。他者を許しなさい」と。
これは確かに正しい。
他者へのジャッジは、内面で起きているセルフジャッジメントそのものだから。
他者に投影したジャッジや許せない気持ちを手放すことで、
自己の内面の罪悪感を手放したことと同義になるから。
でも具体的な方法論がない。
だからこうなる。
「手放しさなさいって手放したくても手放せないんだよ! 許したいけど許せないんだよ!」
と。
誰もがここで詰まる。
なぜなら、罪悪感が強いから。
自己を責めたいという罪悪感にとてつもない魅力を人間は感じるから。
だからジャッジをやめられない。他者を許したくない。
なぜなら自分を許したくないから。
自分を罪びとだと確定させたいから。
人間は自分を罪びとだとしたい誘惑がとてつもなく強い。
だから手放そうと思っても手放せない。
でもやはりここでも多くの人が言う。
「自分を罪びとだなんて思ってません!
あいつを罪びとだと思っているんです!
その罪びとを許せなくて苦しいんです!
ジャッジが止められないんです。
他者を許せないんです!」と。
はい、投影が何もわかってません。(一番最初から読み直し!廊下に立っとれ!)
自分の中にある見たくないものを他者に押し付けている。
これが投影です。(鏡の2枚目ね)
他者に見える”罪”とは
自分の中にある見たくない”罪”なんですよ。
これが鏡の2枚目の動作原理です。
●原因の波動にアクセスするには
原因の波動にアクセスするためには構造の看破をするしかない。
でないと自分が何をやってるのかわからないまま癒そうにも、
その原因の波動を「見たことがない」となると粒子化してない=観察できてないことになる。
認識できてないものを消してしまったら
問いへの答えにならない。
あなたは他者に対する投影が、
「自分の罪を確定させたい衝動だと気づいてなお まだ投影できるだろうか?」
(現時点では、気づいてすらいないかもしれないが。)
しかし、自己理解してその矛盾の構造を見抜かない限り、
「神から分離した罪の責務として、一生苦しみたい」という衝動(罪悪感)を
生きることになる。
その強い誘惑と、
幸せになりたいというわずかな求め。
どちらが創造の優先順位を握るだろうか?
それは本人の自由意志にゆだねられている。
だがここで最大の問題が存在する。
罪悪感を癒そうにも死の恐怖という変化に対する拒絶がある。
そのため、人間は、
ずーーーーっと同じでいられるのだ。
これが三毒の素晴らしい回避能力。
アルコーンOSは見事に完璧に、
「永遠」を模している。
まとめると、
・鏡は2枚ある
・投影の読み解きは自我の統合や成長が目的ではない。
・神からの分離は、体験と学びが目的ではない。
・愛を学ぶ、自分たちが愛だと思い出すという旅は天道への道。
・構造の看破にこのゲームの意味がある。
・解脱はゲームからの離脱だが、アイオーンOSへの移行は「問いへの答えを引っさげながらの上昇」を意味する。
・自己理解と癒しの2つを揃えないとこのゲームは終わらない

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