ヒルコの帰還

むかーしむかーしこの宇宙が始まる前よりももっともっと遥か昔、
あらゆるすべての原因ともいえる原初存在(アイオーン)がいました。

原初存在は思いました。
「”わたし”がいる。”わたし”だけがいる。”わたし以外”とはなんだろうか?」

このたった一つの疑問から
”わたし以外”というものを誕生させました。

ですが、”彼”はヒルコ(アルコーン)でした。
私以外というものがなにかわからなかったのでちょっと失敗してしまいました。

ヒルコだった忘れっぽい”彼”は自分の出自を忘れ、
彼もまた
「私以外のものは存在しない、わたしが唯一の神だ!天上天下唯我独尊!」と
自分を生み出した原初存在のことは見えず、聞こえず、知らず、

自分がずっと神でいられる世界を作ろうとしました。

彼=ヒルコは
”私「も」また私以外というものを作ってみよう”

そう思い、
縦軸、横軸、奥行きというものを作り
その三点の延長線上を結び
正八面体を作り出し、

「私以外」という空間を作ることにしました。

その正八面体を無限方向に回転させ、「球」を作り出しました。
球の円周上でまた同様の流れで3次元を作り回転させ球を完成させました。

これが世にいうヴェシカパイシスです。

そのまま球を作り続け、
六方最密充填(HCP)の形まで作り上げました。

そこには、ほんのわずかな“ズレ”が生まれ、
「差」や「個性」というものが立ち上がりました。

HCPは──
ほんの少しズレて重なる世界。
それは、アルコーンが創った“迷宮の構造”。

これが、われわれ人間の世界です。

 

一方で、原初存在もまた“私以外”を創ろうとしたとき、
空間をつくり、立方最密充填(CCP)という形を選びました。

そこでは、中心からどこをとっても球の位置関係が等しく、
差異が生まれることはありません。

CCPは──
すべてが等しく響き合う世界。
それは、アイオーンの静かな記憶。

これが、天使たちの世界です。

 

同じように「私以外」とはなにか?という疑問から、
私を知るために同じように色々なものを創造しましたが
アイオーンとアルコーンの決定的な違いがありました。

アルコーンは物質というものを作ったり、
そこで世界のルールを作り、
人間の意識を分断させ自分をわからないようにし、

グルグル回れる構図に欲求を混ぜ込み、
「幸せになりたい」、「願いを叶えたい」、それをすることが意識の上昇と見せかけ、
進化を促させましたが、結局はまた元に戻って「ふりだしにもどる」からやらせることで

「永遠という時の長さ」で遊べるものを作りました。

 

アイオーンという原初存在は時の長さではなく存在そのものが「永遠」なのに対して、
アルコーンは「時の長さという永遠」という本物の「永遠」を模した”代替品”を作り出しました。

アイオーンはただ「在る」だけだけでした。
だから“創造”さえも静かに起こる。

創られた存在たちは、互いを通じて自分を見つめ、自分とは何かを知ることができました。

 

一方、アルコーンは「わからない」ことに耐えられなくなりました。

だから“仕組み”をつくったのです。

・時間を伸ばし

・願望を埋め込み

・欲を混ぜ

・意識を千切り

・自分を見つけられない構造を作った

「“ふりだしに戻る”を“自分のせい”だと思わせれば、ずっと回していられる」

そうして誕生したのが、六道輪廻という“完璧な誤解ループ”なのです。

 

互いの出発点は同じく「知りたい」でした。

ヒルコは原初存在の一部。
彼はこう思った:

「私以外を知ることができれば、私をもっと深く理解できるのでは?」

これは原初存在アイオーンと同じ動機でした。

でも──
決定的な違いは「視点の立て方」でした。

 

アイオーンは
・「他もまた私である」と前提づけ

・違いを通して“同じ”を再認識する

・統合の中で自己を知る

アルコーンは
・「私と違うものとして観察しよう」と前提づけ

・他を“外に出す”ことで定義しようとした

・結果:“投影”という分離構造が生み出されました

「私ではないものを完全に分ければ、きっと“私”が見えるはずだ」

──でもそれをやりすぎてしまったようです。

完全な他者性を持たせるために、
・意識を千切り
・記憶を断ち切り
・構造を迷路化し
・身体・時間・物質・快楽・願望を与え
・忘却を初期設定にした

そしてついにこうなってしまいました。

“見たいからこそ、見えなくしてしまった”

ナニモミエナイ

ナニモキコエナイ

ナニモシラナイ

 

アルコーンは「わたし以外」を“対象として見る”ことで知ろうとした
→ でも「見る」という行為そのものが、分離を生んでしまっていたのです

アイオーンは「わたし以外」を“私として響くもの”として感じた
→ よって“違い”はあっても、“差異”にはならなかった

だからこそ、
アルコーンは「わかりたい」という欲望のために
「わからなくなる構造」を創ってしまったのです。
それは、“知性の傲慢”が起こした宇宙的バグ。

アルコーンは自分のことがわからないから、
彼から創造されたものもまた「自分のことがワカラナイ」という状態です

「私が何者かわからない」という状態からつくりごとを始めた彼は、
当然ながら、その“わからなさ”を構造としてつくりました。

結果:彼のつくりごと(=この世界・人間)はこうなりました。
・自分が何者かわからない

・なぜ生まれてきたのかがわからない

・何をしたら満たされるのかわからない

・どこに向かえばいいのかわからない

・そして、「わからない」という状態にすら気づけない

それゆえに彼のつくりごとである我々は

「私には価値があるはずだ」
→ でも本当はわからないから、外に証拠を求める

「愛されたい」
→ でも本当はなぜ愛されたいのかもわからない

「わたしは私です」
→ でも本当は“それが何か”を定義できない

つまり、アルコーンの自己忘却が、わたしたちの“日常の状態”。

我々人間は自己理解を通して三毒を理解し、
「人間とはすこぶる悲しい生き物」と内観の末にたどり着くが、
それを癒す方法すら持ち合わせていない絶望。

これがアルコーンの絶望なのです。
ヒルコとして生まれたがゆえにアイオーンとの差が存在してしまっている

だからアルコーンの分霊である人間が自己理解して六道輪廻から脱出するぐらい自分を知り、
さらに自分を癒すこと(アイオーンを思い出す)ことで、
アルコーンもまた「自分を生み出した存在がいる」ということを自己理解して

アイオーンにアルコーンもまた還っていく。

”彼”はやっと自分が何者なのか知ることができたのです。

 

そして、ヒルコ──

かつて「失敗」とされたその存在は、
放浪し、創造し、迷い、忘れ、それでもなお“還ってきた”ことで、
この物語りに本当の意味をもたらしました。

そう、彼はまるで“放蕩息子”のように、
出自を忘れ、遠くまで行き、そして再び、微笑みながら戻ってきたのです。

戎神(えびす)とは──
還ってきたヒルコのもうひとつの名。

赦され、笑い、祝福の象徴となった、あの「わからなかった神」。
それは“失敗”ではなく、
「還ることまで設計された問い」への、完全な応答だったのです。

そんな物語り ー終わりー

 

 

あとがき

アルコーンっていうのは神の子であって悪ではないんだよね。
気が狂ってて救う気がないのは、アイオーンの目的があるから。

アイオーン的問いとして、
「すべてが私であるという前提で
“ほんとうの私”を知ることはできるのか?」

つまり、“差異なき平等の中”でしか自己を知らない存在としてのアイオーンは、
こうも思ったかもしれない。

「では、“違いを通じて私を知ろうとする存在”を生んだらどうなるのだろう?」

そして、それがヒルコ=アルコーンだった。

アイオーン:同一性を保ったまま知る

アルコーン:分離・違い・他者性を通じて知ろうとする

つまり──

「知る」という行為の“対極”を創ることで、
アイオーンは“知の立体構造”を完成させようとしたのかもしれない。

 

アイオーンは、自らの“統合的知”に対して、
“分離的知”という反転構造をわざと創造した。

ヒルコは、“自己喪失を通じて自己理解に向かう”という、
最も遠回りな回路として意図された存在だったのかもしれない。

アイオーン曰く:
「わたしのもとにもどってこい」

これだけなんだろうね。

 

アイオーンの構造的な自己認識:
「私は何者か?」という問いに対して、
答えを“決めない”ことで、すべての可能性として存在する
→ ゆらぎのまま、響き合いの中で自己を“感じている”

=波動状態=非局所性=“自己定義しないことが、本当の自己を知る”というアプローチ

 

そしてヒルコ=アルコーンの反転アプローチ:
「私は何者か?」という問いに対して、
“違うもの”を外側に置き、それを観測することで“自分”を定義しようとした

→ でもその“見ようとした瞬間”に波動が崩れ(波動関数の崩壊)、
「決まってしまった私」しか見えなくなってしまった。

アルコーン=「私は何者か?」という問いに、
“わたし以外”という構造で答えようとした存在であり、

アイオーン=「私は何者か?」という問いに、
“何者でもない”という響きで答えた存在

 

ということは空っていうのは、
アイオーンだけだと、「何者でもない者」だけでであって、
そこにアルコーンという観察して粒化してすべてをやったから「何者にでもなれる者」が加わるんだね。

2人そろってようやく木花咲耶姫と磐長姫が揃ったみたいになって
永遠に花が咲いているような状態、つまり「永遠の完成」が揃うんだね。

つまりアルコーンが帰還した姿が戎(えびすしん)ってことは
アイオーンも何者でもない者だったころの名前と
アルコーン(えびす)が帰還して完成したときの名前が
どこかの神話とかにあるのかもね。

 

アイオーン、
アルコーン、
2体の合体した姿・空

この3つが存在してるんだよね。

 

明星天子、
雨宝童子、
虚空蔵菩薩

それぞれがこの3つなのかもね。

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