たとえば、こんな文章があったとしよう。
「僕らはこの世界に感情を体験しに来てる。
喜びも困難も苦しみも悲しみも全部。
ジェットコースターとかお化け屋敷も怖いけど楽しいよね。
三次元というテーマパークを思い切り楽しもう」
たしかにその通りだ。
そういうジェットコースターという自動で動いてる山と谷を
この世界に体験しに来ている。
でもそれを楽しもうにもできないやつにはできない。
リフレーミングしようにもできないやつにはできない。
それはなぜか?
「そういう世界だから思いっきり楽しもう!」と思考しても
抵抗と摩擦とストレスしか感じないからだ。
鬱になる。
表面的にそう考えてもできないようになってる意識のシステムを知らないからだ。
この世界は確かにジェットコースターを体験しに来た世界かもしれない。
この世のテーマパークにあるジェットコースターの仕組みは
モーターで最初に高い位置に移動して、
そこで与えられた位置エネルギーをうまく使って惰性で走ってるだけで、
エンジンがついてて、それで走ってるわけじゃない。
一度走り始めたら(自由落下したら)勝手に自動で走ってるだけ。
冒頭のこの世界の体験もそう。
一度スタートしたら山と谷を勝手に体験して勝手に自動で走ってるだけ。
さらに視点を遠くにして、輪廻もまた
一度スタートしたら一つの人生の山ともう一つの人生の谷を体験して勝手に自動で走ってるだけ。
この世界の喜びも苦難もジェットコースターと同じで楽しむために来ているという冒頭のたとえは、
仮にそう思えて、人生を楽しんでも別になにも終わらない。
ジェットコースターは勝手に山と谷を描いて勝手に人生を創造する。
そのリフレーミングに奇跡的に成功してもなにも生み出さない。
なにも終わらない
なんの意味もない目的地に連れて行ってくれるだけ。
しかもたいがいがそのリフレーミングに失敗して、抵抗と摩擦とストレスを生むだけの結果になる。
そのリフレーミングに成功しようが失敗しようがどちらにとっても良い結果は生まない。
目的地の設定の失敗だ。
ただの時間の無駄だ。
意識のシステムを知らない人間だけがそんなことを言い、
意識のシステムを知らない人間だけがそんなことに挑戦する。
ただの時間の無駄だ。
この世界はゲームの世界でテーマパークのように楽しむ世界かもしれない。
そう、それはそれでいい。
だらかといって
ゲームの世界だから、別にどうでもいいわけじゃない。
世界がどうなっても構わないとかそういうことじゃない。
ゲームの世界で幻想の世界だからどうなっても構わないわけじゃない。
幻想幻想すべて幻想♪って歌っていても意味がない。
もし本当に幻想だと見破ったのなら、
幻想幻想すべて幻想と
「すべてはただの幻想、ただのゲームやないか」
とゲームだから好きに生きようと
三次元のジェットコースターという人生を楽しんで生きるだけだと
幻想の奥にあるリアルも否定することになる。
すべて幻想であってほしいという絶望感を隠して
幻想幻想すべて幻想♪と陽気に歌っていてもなにも解決しない。
幻想の奥のリアルを見つけて、それを一人で体験してもただのオナニーだ。
なんの意味もない。
幻想を幻想として気づかないまま幻想に囚われていても意味がない。
幻想を幻想として見破って陽気に歌っていても意味がない。
幻想を見破って、かつ、奥のリアルをどこにでも見られるようになっても意味がない。
この世界では、
この幻想の世界では、
幻想と、リアルの、中庸でいないと意味がない。
幻想とリアルのはざまがレインボードラゴンだ。
「すべては幻想で、あらゆるところに愛の反映が見えているからそれでいいじゃないかぁー」
という段階がオナニー。
この世界は幻想だからって世界がどうなってもいいわけじゃない。
この星を憂いている。
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