中庸の世界

全世界の人間が中庸になってたとしたら
どういうものをイメージしているんだ?

何の「差」も
何の「違い」もない世界だと思っているのか?

差はあるし、違いもある。
それは魂のユーモアの違いだ。

ユーモアとは違いであり差でありギャップだ。

全員が中庸になったら
全員差がなく全員違いがなく
全員同じ世界になると思っているのか?

反対側を生まない世界だから
違いがあったらおかしいだろ?と思うのか?

以前も言ったが、中庸は思考ではない。
存在なのだ。

金持ちの中庸も可能だ。
貧乏の中庸も可能なのだ。

ここでの貧乏とはけっして「悲惨」という意味ではない。
金持ちと比べて相対的に金がないというだけで「不幸」という意味ではない。

なぜそんなことが可能なのだろうか?

本人が何を望んでいるかだ。

 

もし二人の男がいたとして、
二人とも中庸で

一人は
「1杯3000円のラーメン屋」をやりたいと望んだとしよう

もうひとりの人間は
「もっと大衆に寄り添った1杯500円のラーメン屋」をやりたいと望んだとしよう

彼らの意図はなんだろうか?
中庸なのだ。

中庸とは存在であって思考ではないのだ。
思考で中庸であろうとしても不可能なのだ。

そして思考の中で中庸を捉えようとしても
1杯3000円のラーメン屋をやりたいと思ったら世界に貧乏を生むだろうか?

もっと大衆に寄り添った1杯500円のラーメン屋をやりたいと思ったら世界に金持ちを生むのか?

これは詭弁か?
中庸でなければ生むだろう。

中庸とはなんだろうか?

 

空・中庸・ダルマで中庸が一番難しい。

思考で中庸を捉えるのは難しいからだ。

中庸とは右でも左でもどちらでもないものだ。
右と左のバランスが取れているものではない。

中庸とは思考ではなく存在なのだ。
中庸なものがなにをしようが反対側を生むことはないだろう。

では中庸なものはなんでもし放題か?
そうでもない。
存在が中庸なものの判断はそこからぶれない。

中庸の世界にも差はあるし違いはある。
魂のユーモアをなくすことはできないからだ。

(魂のユーモアってなんだよ?ギャグセンスか?)

 

「個」だ。

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