祈りを正確に作るには
カリキュラムでいうと心の闇を見つめるっていうところぜんぶと
祈りは4段階ある
みたいなやつが必要で、
これを学んだ上で、あと日々の実践なのよ。
【実践】なのよ。
心は外側に広がる性質を持つから
エゴを投影するか
真我を拡張するかのどっちかしかないわけよ。
心はただ外側に広げるのが役割で、
何を広げてるかは
意識が持ってる周波数なのよ。
意識が器で、器の中に入ってる周波数を外側に広げるのが心の役割。
で、エゴのフルトランスチャネラーである我々はつねに投影し続けて生きてるわけよ。
この世界は外側に与えたものを自分が得るという世界だから、
自分の中に見たくないエゴを外側に投げつけることで自分の中にはないと見ないで済むんだけど、
代わりに代償として幸せを放棄してることになる。
外側にエゴを投げつけてるから、それを得ることができるのでエゴを増幅できる仕組みになってるのよ。
だから投影の仕組みがわかってないやつは生きてない。
投影しかしてない人生は生き方というスピリチュアリティを放棄してる。
エゴをひたすらに他者に投げつける人生なわけだから。
自分の中にはないと見ないで済むようにしてる人生なわけだから。
当然これは鏡の2枚目の話ね。
みんな1枚目に囚われすぎなのよね。
それも当然だけどね。
1枚目は目に見えるからね。
鏡の2枚目を見るのは思考の習慣なのよ。
だからひたすらに日々の実践でしか培われない。
これができないと正確な祈りってのは作れない。
正確な祈りっていうのは自己理解なのよ。
気づきって言ってもいいけど。
【自己理解】なのよ。
誰かに教えてもらっては意味がないわけよ。
だって自己理解なのよ?
この世界に何しに来てんだ?っていう話で、
死んだあとに「おまえとは何者だった?」と問われて、
「AIが私のことを愛って言ってたので愛っぽいですね」
「もっかい行って来いやボケぇ!」
ってなると思いますよ。
あらゆる思考も感情も
ネガティブもポジティブも関係なくぜんぶ三毒からきてるっていう悲しい生き物、
人間は幸せになるように最初から生まれついてないって悟ってこい。
3年でそこまで行きなさい。
それぐらい日々の実践でしかないのよ。
投影するなかで1割ぐらいのひとが最初から自分を対象に投影してる人がいる。
攻撃の対象が最初から自分なのよ。
カリキュラムが基本的には外側に投げつける話になってるから自分に投げつける「受容型」のひとは少し難しく感じるかもしれない。
でも自分に投げつけてるだけで投影の内容を精査してキーワードを集めて、それを回収するっていう工程は同じだけどね。
受容型のひと方がたぶん辛いというかエゴが増幅してる感じが実感できるんじゃないかな?
でもやめたくてもやめられないわけよね。
受容型の人のほうが幸せを放棄してる感じも自分でわかるんじゃないかしら。
外側に投影する「否定型」と「否認型」のひとも投影についてわかってくると
投影したりジャッジした自分を責めるようになるっていう現象が起きてくるはず。
二重ジャッジが始まる。
人間を苦しめてる大半は二重ジャッジの2回目のジャッジなんだよな。
ネガティブを嫌悪する気持ち。
投影した自分を嫌悪する気持ち。
ジャッジした自分を嫌悪する気持ち。
自分はまだまだだなって嫌悪する気持ち。
これですね。
投影の対象が他者だろうが自分だろうがその内容を精査して回収するっていう実践を日々毎日毎瞬していくことで
自分の思考と感情が三毒から来てるってはっきりわかるまで自己理解は続くのじゃ。
それが自分の人生に責任を持つっていう生き方なのよ。
それができないでスピとか言ってるやつはただのバカだよ?
いやほんとに。
いやほんとに。
何一つできないのと同じだからね。
自分のことがわからないまま生きてるアッパラパーのままってことだからね。
なのでライトワーカーだのスターシードだのエンパスだの、どうでもいいんですよ。
それはただの「なぐさめ」なんだよ。
そこに隠れてるのは、選民意識や他と私は違うっていう承認欲求の現れとそれを外側から埋めたい心の虚しさ、自己無価値感でしょ?
そんなものは2秒でわかるぐらいにならないといけない。
そんなものはただのなぐさめでしかないと2秒でわかる。
世の中のスピ系っていうのはただのなぐさめでしかないってわかる。
まあ宗教とかもそうなんだけど。
心の拠り所みたいなんが必要なんだよな。
なぜ人間は生きていくのにそういうのが必要なのか?
それは人間の意識の支配構造が三毒を車輪に廻ってるからだよね。
だからなぐさめが必要っていうそれだけの話よね。
でもなぐさめは回転を止めるものではないよね。
宗教やスピが蔓延ってるのは人間の意識の支配構造がわかれば納得するでしょう。
なぐさめは救いではない、と。
だからずっと蔓延れる。
最初の話に戻りますが
「祈りを作る」っていう、その言葉に抵抗感を持つ人も世の中にはいるだろうなぁとは理解できます。
でも祈りを作ることはメインじゃなくてあれは自己理解をただ言語化して天と潜在意識に今からこれを癒すぜ!っていうただの自己理解の宣言でしかないわけです。
自己理解を言語化してから→癒しをゼロコンでしてるわけだから、
両輪揃ったよね?
ってことです。
両輪っていうのは、
汝、自身を知れ(自己理解)
汝自身を知れ(癒し)
この2つのことね。
自己理解ができてないと祈りは正確に言語化できないよね?
そのためには投影とその回収をするっていう実践が日々必要なんです。
自己理解のほうが旅路は長いんです。
144面体まであるんだから。
両輪を揃えるっていうのは実践なんです。
実践実践また実践なんです。
頑張ってください。
ぜひ生き返ってください。
「死んだと思った息子がよみがえったのだから」となるまで。
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