僕のYouTubeのとある動画にこんなコメントがつきました。
勝手にさらしてごめんな笑
目的地決められないのは何を目的にしたら正解なんだろう、、
って分からないから、
社会的に成功してるように見える目的地、
自我の欲求が満たされる目的地、、
しかも、その目的地決めたところで辿り着くはずないと思ってるから、
新幹線で、東京-大阪 に行くのに新幹線に乗りさえすれば、
新幹線内で何を思おうと、居眠りしようと、
途中下車しなければ着くのとちがって、
途中に起こるハプニングに翻弄され、目的地になどいきたくない!
今のままがいいというホメオスタシスから自分を破壊し、、
という感じでそもそもたどり着くか分からないような目的地なんて設定する気になれん、
ってみんな思うのかも
これにたいして僕は
って、みんな思ってるってことは、
みんな結局何も決められないままグダグダしてたら人生終わってたみたいな、
ってみんな死んだあとに思うけど、
次の人生こそ、失敗しないように正解を生きようと慎重になった結果、
やっぱり何も決められないって繰り返して、
目的地を決めてもそこにたどり着くかわからないならやらない方がいいやと
あと5万回ぐらい繰り返せば
このゲームに参加すること自体が無駄なんだな
ってようやく「帰ろう」という目的地にたどり着くんじゃないですかね?
と返したんですが、
聖書のルカの福音書でしたっけ?
放蕩息子の話があるんですが、
wikiからの転載ですが
ある人に二人の息子がいた。
弟の方が親が健在なうちに、財産の分け前を請求した。
そして、父は要求通りに与えた
そして、生前分与を受けた息子は遠い国に旅立ち、
そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。
大飢饉が起きて、
その放蕩息子はユダヤ人が汚れているとしている豚の世話の仕事をして生計を立てる。
豚のえささえも食べたいと思うくらいに飢えに苦しんだ。
父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、
わたしはここで飢えて死のうとしている。
彼は我に帰った。
帰るべきところは父のところだと思い立ち帰途に着く。
彼は父に向かって言おうと心に決めていた。
「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」と。
ところが、父は帰ってきた息子を見ると、走りよってだきよせる。
息子の悔い改めに先行して父の赦しがあった。
父親は、帰ってきた息子に一番良い服を着せ、足に履物を履かせ、盛大な祝宴を開いた。
それを見た兄は父親に不満をぶつけ、放蕩のかぎりを尽くして財産を無駄にした弟を軽蔑する。
しかし、父親は兄をたしなめて言った。
「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。
わたしのものは全部お前のものだ。
だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。
いなくなっていたのに見つかったのだ。
祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」
まぁこんな話なんですけど、
豚の世話をするほどに落ちぶれた王の子が
「あっ、せやん、俺、王子やん、父のところに帰ろう」って思ったわけですよ。
善悪の知識の木の実を食って、
楽園から追放されたアダムとイブの話もこれに似てます。
蛇にそそのかされて神の言いつけを破って楽園から追放された話です。
放蕩息子が王国に帰る前に思ったことをアダムとイブこそが思って
「父よ、わしら罪を犯したけど許してーな」と言おう、
だから「せやん、帰ろう」と
アダムとイブこそ思えよって話なんですよ。
アダムとイブは放蕩息子と違って、
失楽園したから楽園に帰ろうぜぇっていう話になってないんですよね。
我々はアダムとイブの子孫であって、
その原罪(神の言いつけを破った)を背負って生きていかねばならんってのが
キリスト教の原理主義者の考え方なんでしょうかね?
なので人類の始祖が帰ろうと我に返らなかったので
我々が帰ろうと我に返らないと誰も帰らないだろう。
我々は楽園からでた放蕩息子なんだから。
んで聖書の放蕩息子なんですが、
豚の世話をしてた放蕩息子は
「豚の世話ができてありがたいなぁ」
「感謝や感謝」
「ポジティブに考えて、ここから成り上がろう」
「願いはなんでも叶うらしいからな」
なんて考えたんでしょうか?
考えた時もあったかもしれないです。
ですが、放蕩息子のエピソード内で
彼は我に帰った。
とありますね。
「せやん、俺、王子やん、帰ったらえぇだけやがな」
と我に返ったんですよね。
なので冒頭の僕の返信コメントのところに戻りますが、
目的地っていうのは「帰る」ことなんですね。
王国からでたこと=失楽園した世界
ここで頂点を極めようなんて思ってないんですよ、放蕩息子は。
我に返って、「帰ろう」と思っただけなんです。
帰る道中で色々するのと、失楽園で色々するのはわけが違うよね?
この失楽園の象徴である「この世界というりんごの木」の中で
成功しようとか感謝しようとか
アファメーションしてそのとおりにしてやろうとか
引き寄せの法則極めて、豚の世話からリンゴ園の主になろうが、
失楽園(りんごの木)でそれをやってどうする?
帰れよ!
帰ろうと思えば済むだけやがな。
このゲームの目的地はそこなんや。
ゲームに参加してゲームプレイヤーとして
色々な人に転生するのはいいけど、
それは本当にただのプレイヤーとしてゲーム遊んでるだけなんや。
ゲームをクリアしようとしてない。
ドラクエ3だとしたら
アリアハンという町で生まれ育って、
そのままアリアハンで生涯を終える村人として生きる、
あるいは、スライムとして生きていく、
海賊として生きていく、
ボストロールとして生きていく、
王様として生きていく、
別にどれをやっても構わないんだけど、
ゲームクリエイター側としたら、
「とっと次の街に行って、冒険進めろや!」って思わんか?
でもこの世というゲームのクリエイターはそんなこと思わんのよね。
アルコーンは意図が違うから。
(エンディングを迎えさせないが彼の意図だから)
だからその意図通りにプレイヤーとして生涯終えるなよ。
このゲームの攻略班になれ。
ゲームを進めなはれ。
帰ろうというエンディングに向かっていきなされ。
んがしかし、
世の中のスピリチュアルが
いかにどれほどりんごの木の中での成長しか謳ってないことか。
そこで頂点を極めても
「天上天下唯我独尊」やで。
「振出しに戻る」やで。
だって、王国に戻ってないじゃん。
我に帰ってないじゃん。
戻ろうとすらしてないじゃん。
そんなこと推奨してないじゃん。
愛を高めろとか波動を上げろとか
神との一体はあるかもしれませんよ?
でもりんごの木という分離してる状態で
どんなに愛まみれで幸せまみれになってもゲームは終わってない。
継続の2文字しかない。
りんごの木の中で神との分離をなくすってそれアルコーンやねん。
神は二人おんねんから。
量子力学で「この世のすべては振動でありその影響である」ってあるのに
エネルギーひとつ扱えないで、りんごの木のなかをどうやって生きていくん?
豚の世話すらできんわ。(この豚って足りないっていう思いの象徴だよね?)
(あれ?仏陀の死因ってなんだっけ?)
人間に自由意志はなくて、
自分のDNAや潜在意識の情報の奴隷なのに
それを癒すこともできなくて
リプログラミングしなきゃいけない情報まみれなのに
その情報が邪魔で自分をリプログラミングすることもできない。
カルマという無意識のエネルギーパターンが邪魔で
それを癒す自然治癒力が発揮できない。
つまり人間はずっと
自然治癒力が発揮されない状態で生きていかなきゃらない。
だから攻略班になれない。
放蕩息子が放蕩したままそこで成り上がるための方法論が
世間のスピリチュアルよね。
意味ねぇーから。
失楽園という神からの分離終わらせた方がよくない?
彼は我に帰った。
これはいつ起こるん?
失楽園から楽園への復帰をした方がよくない?
そのためには生命の樹側に移行する方法で
生命の樹を活性化した方がよくない?
生きてるだけで勝手に自動で周波数が
空・中庸・ダルマ、自己理解がなされる自然治癒力が
発揮されるようにした方がよくない?
勝手にDNAと潜在意識の情報がリプログラミングされた方がよくない?
でも、みんな帰り方がわからんねや。
てか、帰ろうとも思わないんだよ、ほとんどの多くが。
それは冒頭のコメント付けた人と同じや。
もうはっきり「帰る」っていう目的地を
なにがあってもぶれないようにしとけや。
目的地がぶれるから手段がぶれんねん。
目的地がぶれてないなら手段は勝手に情報が集まってくるやろ。
でもみんなが集めてる情報は
放蕩息子が豚の世話からリンゴ園主になろうぐらいの情報しか
そもそも知らないからそれしか集められない。
それはゲーム攻略じゃない。
ただのプレイヤー
NPCとそう変わらん。
波動を整える、
DNAや潜在意識の情報をリプログラミングする方法っていっても
瞑想か
音叉かクリスタルボウルか
高価な波動系の機械か
波動系グッズを身に着けてみたりとか
まぁそんなもんやろな
そんなもんしか知らんのか?
生命の樹側に移行する、
つまりアイオーン側との分離を終わらす旅にでる
空・中庸・ダルマ、自己理解が勝手になされていく自然治癒力の発揮
つまりDNAと潜在意識の情報が勝手にリプログラミングされる方法
これらに出会うことは一生ないんやろな。
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